好きな人と幸せに暮らすということのバランスと幸せになる技術

パートナーと私が一緒に住み始めてから、もう16年以上経つ。

それも驚きだが、私は今でも彼のことが愛おしく感じているということもすごいと思う。

しかも向こうも私のことが大好きというのが分かるので、相思相愛感があって良い。

「私たち、ずっと一緒にいる?」と聞くと、いつも「永遠にね」と答えて来るのはニクイではないか。

昔から不思議と存在自体が癒しだと思っていたので、別に何かしてくれなくても幸せだった。いや、昔は一緒に何かしようとすると必ず喧嘩になっていたので、むしろ何もしないでくれた方が良かったくらいだ。

そう、最初の5年くらいは出掛けたら喧嘩になるのでしんどかったが、いつの間にか嘘のように喧嘩をしなくなった。

だんだんお互いが相手の嫌なことや喜ぶことを理解するようになったし、趣味が全く違う私たちは「無理に興味ないことに付き合うよりは」と状況に合わせて別行動するようになったので、それも良かったと思う。

そして歳を重ねて、2人とも経済面や精神面などに余裕が出て来たのもあるだろう。

最近は一緒に出掛けるのが楽しくて、あんなに喧嘩をしていたのが嘘のようだ。

 

現在の私は、ブログのお陰でひとりで出掛けるのも楽しくて仕方ない。

ブログのために自分の足で訪問して、調べて、記事にまとめるという作業にとても幸せを感じるので、ずーっとこの先もこれが出来たら良いなと思っている。

書く時は、まっさらな状態からどうすれば良いの?と途方に暮れるが、だからこそ完成した時の嬉しさはひとしおだ。これ以上のどんな幸せを望めば良いのか?と思うくらい幸せである。

 

だけど、こんな状態を保てているのは、私が幸せにフォーカスするスキルを身に付けたというのもあると思っている。

自分を自分で喜ばせるスキル。自分の機嫌は自分で取る、そのためには精神的な自立をしていること。

だけど本当のことを言うと、細かい悩みごとはたくさんあるのだ。

 

本当はもっとスッキリした部屋に住みたい、いや、せめて普通の生活がしたい。

この場合の「普通」は、もちろん私基準の「普通」だが、その基準には全然達してなくて悲しいと思うこともある。

 

例えば、生活空間に物が多すぎること。

人のせいばかりにはしたくはないが、パートナーの物が多過ぎる上になかなか捨てたがらないので、私ひとりではどうにもならない。

昔に比べたらかなりマシにはなってはいるが。

 

つまり、パートナーと一緒に幸せに暮らすということは、目をつぶらないといけないこともあるわけで。(お互い様だとは思うけど)

 

持ち物やインテリアには人一倍こだわると自負する私だったが、十数年の間にもう諦めたというか、お手上げというか。

今になって少しは「片付けよう」という意志を見せるパートナーだが、今度は私のやる気が失せている。

というか、目の前のものをちょっと片付けたとて部屋全体がきれいになることはないので片付けることのモチベーションがすっかりなくなってしまった私を前に、やっと気付いたのかもしれない。

 

ああ、コロナのロックダウンの時に部屋がスッキリしていたら、どんなに良かったか。

どっちにしても、ちょっとやそっと頑張ったくらいでは、私の思う整理整頓された部屋にはならないだろう。

 

パートナーよ、この件に関してはイライラするが良い。自業自得だ。

 

それでもたまにに気合い入れて片付けたくなるのだが、それは私が10年以上にわたって「もう買わないで」と言い続けたにも関わらず物を増やし続けるパートナーを直視する行為でもあるので、片付けているうちにだんだん怒りがこみ上げてくる。

だから普段は見ないようにしている方が吉…かもしれない。怒鳴り散らしたり悲しくなったりしたくない。

 

その点に関しては圧倒的に幸せではないので、定期的に私の怒りを見せないととは思っている。

そうしないと、彼はそれがどれだけ私の負担になっているのか分かってくれないだろうから

 

ああ、それなのに離れられないってことは、私もよっぽど彼のことが好きなのね?…とふと気付いた。

 

私は別に恋愛経験が少ない人間だとは思ってないが、少女漫画の主人公が「酷い人だけど、私まだあの人のことが好きみたい」と言ってる気持ちがよく分からなかった。

でもそういうことか。酷い人は言い過ぎだけど。

 

そしてこうも思tたりする。

「もし、理想の素敵な部屋にまで住めるようになったら、幸せが完璧すぎて怖くない?」

 

いや、次のステップに上がれば違う課題は来るだろうから心配には及ばないという感じなんだろうけど、世の中にはきっと完璧はないだろうし、不完全だから良いという考え方もある。

とりあえず、幸せになるというのは技術だと思う。